昭和41年04月06日 夜の御理解
見事な筆跡で、一心不乱ということである。一心不乱ということは、もう読んで字のごとしね。一心、一心とは、心に迷いのないこと。不乱とは、それを乱さないということ。ですからこれは、もう何事にでもそうでしょうけれども、一心不乱にならなければいけませんね。というて、一生懸命ということなんでしょうけれども、一生懸命ということはなかなかできませんね。
横からその何かが入ってくると、もうそちらの方へ目が移ったり、もう心が動いたり、それが迷うて、どうすれば一心不乱になれるかということを、まぁいろいろ苦労してみることが大事ですね。教祖の神様の御理解の中に、御祈念をさして頂くのに、必ず大きな拍手の音をさせんでもええと。大きく手を打たんでも、大祓やら奏上さしてもらうのに、節を付けたり大きな声を上げたりすることいらんとこう。神様には、聞こえるというわけなんです。神様には見えるというわけですね。
問題は、心で拝ませて頂いておっても、あぁ皆んなが間違えましてね、そのもう大祓をあげなかったり、大祓を小さい声で上げたり、それではねおかげにならん。それは今も申し上げますように、そういうことによって、その神様と交流する一心不乱になることによって、神様と交う。ですから、段々そこが上達致しましてですね、もう御理解が、「拍手を打たなくても」と。こう目をつぶって「生神金光大神様」、心の中に唱えたら、もうここに神様が現れて下さるような。
話し掛ければ、それにご返事を下さるような、おかげを頂けれるようにもなるんですよ。これは、もう間違いのないことだから。だから必ずしも大祓を、なるほど上げなくてもよいのだけれども、上げてはならん、というのではないね。だから一心不乱にならせて頂くということは、まず私は拝むことから一心不乱にならなけりゃいけんねと。信心はまず拝むことから、ね。
ですからやはりひとつ自分の拍手の音一つにも「ポン」と、こう澄みきった音の出るようなですね、稽古せないけませんですよ「バチバチ」というよりも「ポンポン」と、いいでしょうが。自分の心の中が冴える様な気がするね。それで例えばなら大祓、天津祝詞を奏上さして貰うでもですね、もうそれこそもうこの時だけは一心不乱。横から誰々が物言いよっても聞こえん位にです、それこそ場合によっては、地声張り上げてもよいから、腹の底からね、上げさして頂く稽古が、私一心不乱になる稽古だと思う。
もう御祈念中に、いろんな事ばっかり思うとる。よそで子供どんが話しよる事が聞こえてきたね。そういう事をぐずる、ぐずる。その神様に、心向けていかなければならんのでございますけれども、それはどの様な事の中にでも、その神様へ打ち向かっていく、一心不乱というものを頂かして頂くのでございますけれども、まず神様に打ち向かうことにおいては、まず私は、そう言う様なところから、おかげを頂かなければいけんのじゃろうかとこう思う。
もう心の底から一生懸命に、もう夏でも汗の出るくらい。夏でも汗の出るちゃ可笑しいですね。冬でもですね、冬でも汗の出る位にね、私共はあの奥津城の石段に座らして頂いてから、大祓を一巻も上げ終わる時には、汗がいっぱい出るくらいあります。そのくらい一生懸命で上げます。ですからそういう一心不乱で、御祈念さして頂くと言う事がですたい、本当に何か一心不乱の時であるから、成程神様からご返事を頂けなくても、自分の心に響いてこなくてもです。
一心不乱に御祈念をさして頂いた時には、神様が聞いて下さったと言う様な気が非常に強い。その強い心がおかげを頂く、ね。ここでもう本当に、私が他の教会では、もう銘々いつもかつも大祓を上げたり、天津祝詞を奏上したり、一生懸命御祈念をなさるのが、普通の教会がそうですけれども、ここでは私がもう殆ど、ここでは御理解でており、最近は皆さんがテ-プを聞かれますからね。
御祈念をしながらでも、御理解があっておったら、その御理解を頂かせて貰うと言う事のほうが本当だというふうに、御祈念しながら、心を御理解の方に向けておく事のほうが本当だと、こう申しておりますくらいでございます。けれども朝晩の御祈念の時ぐらいは、一つ本気で一生懸命で、いうなら一心不乱にです、私は、神様に打ち向かわなければいけない。そういう稽古から、私はなさらなければいけんと思うね。
どうぞひとつ、御祈念をなさる時にはその御祈念をさして頂いて、段々段々自分で自分の上げておるその、大祓なら大祓の声に聞き惚れる位の気持ちで、御祈念をさして頂いてご覧なさいもう本当に気持ちがいいです。それが段々それこそ、お唄いならお唄いの稽古しちゃる人達なら分かるでしょうけれども、その発声法というのがあるんですよ。やはり大祓なら大祓の発声法があるんです。こりゃまた小唄とかそのお唄いとかは、また違います。大祓の言わば発声法という。
自分で工夫して頂きますと自分の心の底からです。もう自ずとその巧まず上がってくるという声が、段々頂ける様になる。その大祓の声に自分が聞き惚れる位、そこに一心不乱ね。成程大きな手を叩いて音のする様にせんでもいい。大祓をわざわざ節を付けたり大きな声をせんでもええ、と仰るのだけれどもですね。私共は一心不乱と言う様な信心をさして頂く為に、まず拝む事から御祈念からと言う事になると、とにかく一心不乱に一心不乱に大祓を上げるというのが、心中祈念では一心不乱になりにくいのです、ね。
それが、段々稽古の上にですね、心中祈念をさして頂いておっても、心中祈念であっても、もういちいち神様が合点して下さるような、おかげを頂くとこまで御祈念の、言うなら上達ができれば、これは有り難い事。けどまず皆さんのとこでは、一生懸命にひとつ天津祝詞を奏上する。大祓を上げさしてもらうね。拝詞、天地書付を奉唱さして貰うね。横で話をしておる者、よその隣の人の声に負けないくらいに、押し潰され無い位な事に、そこに焦点をおいて一生懸命なっても、それが私は一生懸命だと思う。
それが一心不乱だと思う。もちろん、その事だけではありません。拝む事だけではありません。すべてに、信心に、ならせて頂くという事に、一心不乱にならせて頂くという事は、もちろんですけれども、まず手初めとして拝むことから一心不乱にならせてもらう稽古、もう一人ででもです、あの先唱でもできるくらいに、私は、おかげを頂いたらいいと思うですね。
どうぞ。